昭和40年1月19日 朝の御理解
昨夜のお月次祭の後に、頂きます御理解の中から、頂いてみて、改めて分からせて頂くことがございましたが、皆さんどうだったでしょうか?。何と言うてもやっぱり、ここでのヒレイの中心はやはり私です、これはもう間違いのないことですね。ここでおかげを頂くとか、まあ昨日の朝の御理解から頂くならばです、その(?)と思われるような、その一つのヒレイの様相というようなものはです、なんと言うてもやはり私の信心です。で皆さん合点がいくですよね。けれどもその、それだけではいけないということだったですね。私昨日はそのこと、中心がお徳さえ受けてちゃんとすりゃ、その、どんなことでも来出るとこう、まあなるほど出来はするけれどもですね、その後々が悪いということですね。そうでしょう、昨日の朝の、昨日の夕べの御理解を頂いてですね、そこんところを、こりゃあ一つ本当に、いいい、椛目のお広前全体がです、私を中心にして、いわゆるあいよかけよの信心が出来なければ、いけないなということを考えましたね。
例えばですよ、えぇ、目的に向かって、例えばその、浦島太郎を、亀、亀が背中に乗せて目的に向かって進んで行く、ところが浦島太郎は、竿を掲げてから、まあ用紙のような絵に見るように、言うならこの、亀の背中に乗っておりますわな。それでどこへ連れて行かれるそりゃ分からんにいたしましても、っとこう正面を見てこうやってするのが、浦島太郎じゃなからきゃならんのに、あっちに(?)、よそ見ばっかりしとる、浦島太郎がよそ見ばっかりしとる、言うなら道草ばっかり、まあ普通で言うならくっておるわけです、道を歩いておるとするならば、そういう時にどうでしょう、亀が潜ってスーッと入っていったら、浦島太郎はどういうことになるでしょうか、ね、うぅっとこう(?)ごとしてから、あっち見こっち見して行きよる時に、亀が下へズ~っと潜って行ったら、あなた海の真ん中で放り出されなければならないことになるんじゃないでしょうか、と言う具合に、亀とその浦島太郎とは、密接な関係を持っておるのだということなんです。ね。
こうあの、亀が泳いでるんですよね、浦島太郎が上へ乗ってる、で上に乗ってる、その、浦島太郎はあっち見こっち見して、よそ見ばっかりしておる、であの亀はこんな具合で泳ぐわけですね、四つの足ですか、手ですか、ね、こうやって泳いでおる内に、泳ぐのですから、この、手の裏が見えるんですこう、浦島太郎から見ると、そ丁度こう、何か、裏っ、丁度ですね、その亀がお頂戴でもしておるような見える、こげな風に見えるわけ。ここが見えるもん、足の裏が見えるわけですね。
夕べも、あぁ昨日秋永先生が、あちらへ、お土地の事で、えぇ、吉田さんの所へまいりましてから、帰って来てからまた、やかまし言うてするとですもんね、もう本当にこの人ばっかりはもう、後も先も聞かんでから、ただ自分の感情だけで物を言うと思うてから、昨日ばかりは私は、そのぉ、そう思いましたですね。もう自分がしたじゃ何かできばする、なら私がほんなこてこうやって、あの「良かばいもうかまわんで」ってっちから潜ったらそう言うじゃろうとこうやって私は思いましたけれどですね、まるきり私が汚い腹ばし持っとるような、その言い方をするんですね、汚い腹って言うが、なにかその事ぉ、本当にかきぎでもしておるような、言い方をするんですよ。
これは、夕べも、もう休ませて頂くのが1時でございましたが、家内にもそれからも話すことでございましたが、丁度休み掛けに「明日お父さん、あの子供達が二人月謝がいると言いよりますよ」とこう言う、それで私が、今までは気には止めなかったけれども、「ちょっと待て待て」と私が申しました。「子供達が月謝がいいよります」と、それはまあ親が月謝を払うのが当たり前だけれどね、「ここの場合は違うぞと、神様に払うて頂かなきゃならんのぞと、そんなら一辺俺が御結界に座っておる時に、ね、1日2日遅くなしてもかんまんから、ね、「子供達がこれこれ、いくらいくらいるって言いよりますから、どうぞお許しを頂きますように」と言うて母親がお取次ぎを頂いてお下がりを頂くという気持ちになったらどうか」と私が申しました。まあ本当にそれは、それが本当でしたけれども、迂闊でしたとこう、うんそうじゃ、一事が万事に迂闊だと。お供えする者も一生懸命なら、それをお取り次がせて頂く者も一生懸命、その、例えばご直会なら、お下がりを頂く者もまた一生懸命、私だけが一生懸命になっとったっちゃでけんっち、夕べの御理解を頂きますとそうでございましたでしょう。なるほどそうだなと私は思うんです。もう夕べの御理解頂いてから、もうしみじみその事が分からして頂く気がするんです。ね。それは私は、あの神饌物にネズミが来るということから、皆さんにお話聞いてもろうた。ね。お願いをした、お願いをするだけじゃでけんから、これは私の信心の間違いとして、その、改まりもし、お詫びもさしてもろうて、お縋りさせて頂いたら、早速神様言う事聞いて下さって、神饌物にネズミがこんようにおかげ頂いた、それから10日15日経って行きよる内にまた、神前の、言わばそのぉ、遠慮し遠慮し盛っていないような感じですけども、確かにネズミが来ておることだけは間違いない、はぁまた私が間違うとる、また私がお気付け頂きよるとこう思うたら、今度は、まあ言葉で言うなら「お前の信心のそれではない」っていう、ね、言うなら神饌室の責任、責任者である、久保山先生の信心が間違うとる、それを頂くかっ、家族の者が間違うとる、神饌室に出入りをする先生達が、あまりにもろくそなか、どうでしょうかね、私の信心がしゃんと出けて、ならおかげを頂いてからネズミが来なくなった、けれども幾度ネズミが引き散らかすならどうなりますか、ね、神様はもう本当にその、おぉ、本当のおかげを下さろうとしておることが分かるですね、一家なら一家を揚げ、教会なら教会全体を揚げてです、そこんところに焦点を置かせて頂き、御神前の神饌物も、おぉ不浄がかからないなら、神饌室にある時の、何もなるほど、神様にお供えをする者なら者らしゅうです、神饌室の責任者なり、神饌室に出入りをする者が、あぁ、それを、おぉ、神様にお供えする者だとして不浄が掛かっちゃならんというようにきちっとさしてもらい、それに使うところの小道具類、布巾、お皿、三方類に至るまで、ね、心を込めてのことにならしてもらい、そしてそれを今度は、お下がりを頂かしてもらう家族の者なり、それを頂く者がです、また一生懸命の頂き方がでけてです、言わば神饌物に、ネズミが来るだんじゃない、えぇ、というようなおかげを頂いた方がほんなことですね。そうでしょうが。例えばならここのお広前建設の事も夕べちょっと出たんですけれども、お広前建設が、んなら、先生の信心の徳によってでけたと、ね。ところがうんなら、それを、家族の者が汚し、先生方が例えば汚すような、言わば出けたお広前がです、お広前は立派に出けたばってん信者はほんな、あぁ少しばかり、というようなことでは、帰ってお粗末ご無礼でしょう、そういう例は沢山あるです。ね。誰か、一年建立的にですたいね、ドンッとそのおかげを頂いてから、お広前が出けた、出けた境にその、お広前が寂しゅうなっていくというような例はいくらもあります。ね。先生もやはり、中心である先生も、一生懸命であるなら、亀も目的に向かって進むことが一生懸命なら、これに乗っておる浦島太郎の信者さんなら信者さん、皆がです、私任せになるという度胸を据えるだけではなくてでも、やはり脇目も振らずというような、信心がなされなければです、本当のおかげになってこないということを、私はしきりにその昨夜の御理解を頂いてから、ははぁそこんとこにいっちょん気が付かなかったと自分で思いました。ね。なるほど私が力を頂き、徳を受けて行ってです、ね、おかげを頂かなければならんことは勿論、けれども私だけが例えばなら偉くてです、私だけの力でです、例えばそのお広前が例えば建立されたところでです、ね、大した値打ちはないって。私の信心を中心にして、総代幹部信者一同がです、一丸となって奉賛し、一丸となってそのことを祈り願わして頂いてです、そして例えばお広前が建立したというのならばです、ね、信者と先生とが一体となっておるから、その新お広前が、寂しゅうなるようなことはない、ネズミがかじるようなことは無かろうとこう思うんですね、確かにそうなんだ、だからそこんところを分からして頂くためにです、少しのおかげを見せては、さあまあちっと改まらにゃん、ということにもなってくるのでございます。
家族の、家庭の上においても同じことが言えるでしょ、ね、例えばなら高芝さんが、一生懸命信心がでけて、お商売が繁盛しておると、家内がパーパする、子供達は要らん金を使う、これではせっかくの高芝さんが一生懸命の信心によって、おかげ頂きなさったものがです、お粗末ご無礼になって、これなら、またおかげ落しの元になるようにです、そこで家内も子供も一緒に信心さして頂いてからです、おかげを落とさんですむような、あぁ、家庭の中にそれがでけて、頂くおかげが本当なことだと、いわゆるおかげがスムーズにスッスッスっと頂くということだけが、おかげではないということ。
これはもう私はしきりに、その昨夜私は考えるんですけれども、ここんところ本当にです、例えば神饌物というような些細な事からですけれども、確かにここんところのおかげを頂かねば駄目だと思うですね。打って一丸となるということはこの事だと思うです。私が神饌物を大事にするならです、家族中の者が先生方一同がです、神饌物に対してもちっと白真剣な取り扱いをさして頂くというぐらいにならなければですね、ね、神様の布巾、御霊様の布巾であろうが、神様の御皿の上に御霊様の御皿が乗っておったり、ね、そういう例えば乱雑なことで、例えばここがいかに御神前の、おぉが、にぎやかにお供えを頂きましてもです、これはこちらへ入ってから乱れて、乱れると私は思うですね。
家内に私は申します、昨夜申しますように、ね、こりゃ勝手の者もしっかりおかげ頂かにゃいかんぞと、ね、お下がり一つで頂くでもです、今まではそれで私は何とも気が、気にも留めなかったけれども、やはりお下がりを頂くのであるから、子供達の、なら役用品一つ買わして頂くでも、一日遅れたってかんまんからです、例えばね、その時間がそういう時間もないならば、お取次ぎを頂いてから、「誰それが幾ら幾ら要るって申しよりますから、どうぞお許し頂きますように、そがしこ言うとがせからしかか」って私が言うた、「いいえせからしかだんじゃありません、ほんに私が気が付かなかった」とこう言う。ね。形式じゃない、実際そういうことになってこなければ、皆さんが真心込めてお供えをなさった、そのお供えを神饌室でも運ぶ先生方が、ポンと例えば大盛台の上に乗せときさえ良かっちごたるふうで、もう生物じゃろうが乾物もんじゃろうが、一緒の卓に置くようなことでですたい、良かろうはずがないって。
布巾でも干皺だらけのこっうしたつのかかって、いつ使うたじゃ分からんごたるふうに、さああろうっ、私昨日入りましたらそれを思うんです、綺麗にやっぱ洗うちゃるばってん、ポンってこう引っ掛けつのあるです。この(?)神様の御道具を拭かして頂くのだから、それこそ、使うたら拭かせてもらう、きちっと、私はこう、のりを付けたようにです、お布巾なんか綺麗にしておかなければ、いけん、だからこれは決して久保山先生が、えぇ、ここの責任、そこの責任をしっ、とっておられるからと言うて久保山先生だけじゃないですけれども、これは皆が協力しなきゃいけないことです、ここで、ね。だから問題はそれだけでしょうが、けれどもこれが問題が少し大きくなって例えば、例えば今申しますその、ここで問題になっております、お広前の建設とか、土地の購入とかというようなことでもです、ただ一人か二人かが一生懸命になっただけじゃいけんということが分かるでしょうが、他の者は余所見どんしとったもんじゃ、ね。その出けた後が怖いと私は思うです、そうでしょ。み~んなが協力さしてもらう、皆がそこに、言わば、勢を揃えた信心にならせて頂いてからです、また皆が多少なりとも奉賛させて頂いてからです、皆の祈りと皆の力と、それを先生が取りつかれて、お取次ぎされて、このお広前が建った、建立されたということにならなければです、ね、後々のヒレイに関わるようなことはなかろうかとこう思うんです。それは私共の知っておる範囲の思うても分かりますよ、ね、先生のお徳でポンっと、確かに立派なお広前が出けたと、それだけでは、後で、後がです、なら広い、広々としたならお広前が出けたけれども、信者はわずかばかり、いや返って、あのお広前の建った境に御ヒレイが落ちたという教会は、なんか私どん知っております。例えばその点、のましたの手本にするならば甘木あたりがそうですたい、ね。何年間、3年か4年かかっております、ね。その間例えば総代、幹部という人達は、(?)弁当でですね、毎日毎日その何年間を通い詰めたという、言われておりっ、御伝記にそういうことが注してございますでしょう。ね。
そりゃ例えば返って、えぇ、言うならばです、返って経費倒れになるかも知れませんけれどもです、さあなら事業月だ、さあなんだという時にはもう、それこそ、何百っ、言わばあの、事業(?)、千からの人が集まって、皆がそれに、御用奉仕さして頂いております。ねそういう思いとか力とか、そこに集中されてですたい、そして出来上がったもの、先生の(?)、例えば私の徳とか、私の信心だけでネズミが来んようになったというだけではなくてですたい、それを中心にして、そこに関係のある者が、改まらせてもらい、ね、志してもらい、そして神饌物なら神饌物らしい取り扱いをさせて頂くようなものがです、私をはじめ皆の上に出けてから、きちっとなっとるんなら、こんなら間違いないです。ね。なるほどラムネを飲むように、そけ引っ掛かりこけ引っ掛かりすることがだからおかげ、だから引っ掛からんようにおかげを頂きたいためにはです、皆が、言わばここで言うならば私から先生方から、家族の者に至るまでがです、一貫して、しっ、神様のお下がりとしてです、ね、お供えとしてとお下がりとしてと、取り扱いの上にも頂く上にもです、お供えをさせて頂く者も一生懸命なら、取り次がせて頂く者も一生懸命、そのお下がりを頂かせて頂く者もまた一生懸命で頂くというような、信心が出けて私は本当なことじゃないかと。その事だけじゃないです、一事が万事、家庭の上においても同じこと。ね。お父さんだけが一生懸命信心が出けるけれども、家内が出けん、子供が出けん、それで例えば良しおかげを受けてごらんなさい、金銭なら金銭の、ね。これではおかしいでしょう。ね、信心がないから、さあ金やら物やらが沢山、例えばならおかげ頂いたらです、必ず(?)すること間違いないです、信心で頂きませんから、そこで家族中の者が信心で頂けるようになるまでです、おかげを少し下さっちゃ引っ掛かり、少し下さっちゃ引っ掛かり、ねそけ引っ掛かりこけ引っ掛かりするということもです、そういう信心を分からせて下さる、神様の手段であるということを分からしてもろうて、ね、一家中の者が、お広前中の者が、ね、信者一同がです、足並み揃えた信心にならして頂かなければならんという訳がです、そういうところにあることを一つ分からしてもろうたら、これはどうでもその、ここに焦点を置いて信心さしてもらわなければいけんなということが分かりますですね。おかげを頂かなきゃいけません。